毒親育ち、子どもを育てる

毒親の元育った私が子どもを育てた話。解毒に至る過程などもぼちぼち書きます。

日教組先生の思い出

先日公開した中学受験の思い出は受験をメインにした回顧録(ってほどでもない)だったが、

私は当時小学生だったので、当然昼間は小学校に通っていた。

塾は楽しかった。(小6の冬休みまで)

しかし、学校生活は最悪だった。

 

私の通っていた学校は 〇〇地区にあり(察してね)

古くからいる〇〇地区の住民が3割くらいであとは山を切り開いた新興住宅地の住民だった。

子ども同士は住んでいるところなど関係なく遊んでいたし、それこそ高学年に入って繰り返し〇〇地区について学ぶまで意識さえしなかった。

あえて言うならば、〇〇地区の子どもたちは放課後〇〇地区にある公民館のような建物で学校の先生に勉強が教えてもらえるようだったし、お金に余裕がありそうな家庭だったり議員だったりが多かったのでうらやましかったくらいだ。(どういう仕組みかまでは知らない)

 

また、高学年になって学んだところで友達との付き合い方が変わったわけじゃない。

どちらかというと、〇〇地区に住む友達の方が逆に「私は〇〇地区の住民である」という現実を受け止めるきっかけになっていたのではないかと今になって思う。

ある時 私が「差別差別うるさいよねー。誰も今はそんなこと言ってないじゃん」みたいなことを〇〇地区に住んでいる友達(というか、何気なくぼやいた相手がたまたま〇〇地区の友達だった)に言ったとき

「今はないけどね。まだあるんだよ」と真剣な表情で答えたことは記憶に残っている。

私は地元の中学に進まなかったので その後の事は知らないが

小学校時代は仲良くしていても、中学にはいると

指を4本出してニヤニヤしたりするバカが居たそうだ。

 

 

そんな土地柄なのかたまたまなのか分からないが(〇〇地区と日教組が関係あるかどうかわからない)、国旗掲揚も国歌斉唱もない小学校だった。

4年生のときに音楽で国歌について説明が一度だけあったが

天皇陛下が威張っている歌」という内容だった。

子どもなので、当時は疑問に思わなかったが 大人になってから教師の国語力に驚いた。

 

偏った思想は人間をバカにする。

 

 

4年生のときの担任もなかなかだったが

5,6年生の時の担任は強烈だった。

 

その担任はIといい、当時36歳の独身女性だった。

Iは写真が趣味で、独身を謳歌している雰囲気なタイプで

よく私達に自分が撮った写真を見せてくれた。

 

その写真は…

中国にある 南京大虐殺記念館 で撮って来たものだった。

骨だの生首だの そんな写真を引き伸ばしたパネルを黒板に掲げ

日本軍がいかに酷いことをしてきたかを熱心に語る。

そして、

戦後、そんな酷い日本軍に対して中国人がいかに優しく振舞ったかを

涙ながらに語る。

 

南京の人々は抵抗する間もないうちに殺された と主張する一方で

子どもを守る母親の骨 とか見せながら 

最後の抵抗について語るI 

皆殺しだったから南京には人が残っていないとかなんとか言いながら

生存者の証言とか読みあげるI

 

子どもながらに「えっ?矛盾してるじゃん」と突っ込みたいが

そんなこと言えばどうなるか分かっている。

 

Iに怒鳴られるのだ。

 

 

Iは 〇〇地区についての学習にも熱心だった。

歴史の授業は殆ど〇〇地区のことに費やされた。

水平社の話とか、社会の授業でやる内容ではないがそれが当然かのように

授業が進んでいたので、他校の児童が同時期に「自動車産業について」学んでいると

知った時は本当に驚いた。

そして、なにかにつけて差別差別と主張した。

私が私立中に進学するのも差別だそうだ。

あほくさ。

 

さて、私は母の意向により5年生に進学したときから受験を公言していた。

しかし、Iは教室内に受験生がいることが気に入らない。

差別者だからだ。

そのせいか私は2年間 Iからなにかにつけていじめられた。

・わるみさんは勉強は出来るが…だ。 

シリーズである。

なにか少し失敗するたびに「勉強は出来るけど…」と2年間言われ続けた。

たまに勉強面で失敗すると意地悪な笑みを浮かべ「出来ないこともあるんだ」と言う。

授業中「わかりません」と私が答えると「テストだったら書くくせに」と言う。

まだまだたくさんあるが 一日一回はなにかしら言われていた。

受験のことを少しでも匂わすと怒られた。

慣れてきたら もう面倒なのでIの前では黙るようになっていった。

そんな(自分的に)平和な中、Iは私をじっと見つめポツリと言う。

 

「わるみさんは 心の病気かいなね」

 

私は心の病気ではないし、もしそうなら病因はIである。

 

ちなみに 学校でIにいじめられること、心の病気疑いをかけられたことを

母に伝えてはいたが

「あら~ 嫌なババアね。馬鹿なのよ~」と共感を示し、Iをバカにする発言をするのみで具体的にはなにもしなかった。

母は母で 自分に不利益がないと判断したことについては無関心なのだ。

 

 

6年の2月には受験が完全におわり、私は相変わらずIの前で黙っていたが

3月に入ってIがクラス全員に向かって上機嫌でなにか書類を書きながら

「このクラスは全員〇〇中学に進むのよね~♬」と言ってきた。

私はあわてて

「あ!いぇ 私は違うところに…」と手を挙げて発言したところで

Iに怒鳴られた。

「なんで言わないの!せっかくみんな〇〇中だと思ったのに!職員会議でも言ったじゃない。うちのクラスは(以下略)」

 

理窟は分からないが、Iにとっては受験は差別らしいので 自分のクラスから差別者が出たのは許せないのだろう。

しかし、子どもが努力して合格したにも関わらず 「おめでとう」の一言もないのかよと今は思うし、そもそも「言わせない雰囲気」を作ったのはIである。

 

その後の卒業式も散々だったし(将来の夢にケチ付けられた)

卒業アルバムにあたっては 私の名前のみ間違えられていた。

 

 

このころのことは完全にトラウマである。

その証拠に息子が小学校に入学する前にIが勤務する小学校を調べたし、

毎年4月に名前を検索し、どこの小学校に居るかチェックしていた。

ありがたいことに2年程前に定年退職したようなので一安心だ。

 

36に自分がなったとき ふとIのことを思い出した。

当時私は子どもでIは大人だったから 分からなかったことも

今 自分がIと同じ年になってわかるようになった。

 

大人になって、ゴーマニズム宣言戦争論を読み、南京大虐殺についての違和感が解消された。

読み終わったときに、Iに送り付けてやろうかと思ったがめんどくさくてやめた。

また、当時クラスの一人がIに対して

「どうして中国が好きになったんですか?」と聞いたことを思い出した。

Iは、組合でただで中国旅行につれて行ってくれるっていうイベントがあり、それがきっかけだと答えていた。

行くためには勉強会とかに出ないといけなくて最初は面倒だとおもったけど、勉強して旅行に参加したらハマったと。

 

36で一人暮らし、周りの友達は家庭を持っている状態。だれも本音で相談できない状況でIは中国旅行という餌にかかっただけだったのだろう。

そして、中国旅行をきっかけにその団体の思想に飲み込まれてしまった。

 

母についても同じだが、大人だからといってみんながみんな成熟しているわけではない。

未熟だからといって、Iが私にしたことを許せるわけではないが

もし、今 

大人に絶望している子どもがいたら…

「大人がみんな正しいわけじゃないし、大人がみんな間違っているわけじゃないよ」

と伝えたい。