毒親育ち、子どもを育てる

毒親の元育った私が子どもを育てた話。解毒に至る過程などもぼちぼち書きます。

中学受験の思い出 その4(合格後~燃え尽きるまで)

合格がわかってから

母に言われたのは

「ご〇〇さまのおかげね」

だった。

 

私はそのころ割と真剣に「ご〇〇さま 凄い」と信じていたので

私が合格したことについても

「…ああ、そうか。ご〇〇さまのおかげか」と母の言葉を受けれた。

しかし、受け入れたけれども

未だに覚えているくらい モヤモヤしていた。

 

私が志望校に合格したことについて 母は色んな人にしゃべってまわった。

母はうれしそうというよりも どう言葉にしていいか分からないが…

スネ夫のママみたいな感じだった。

子どもが努力の末に合格したことを喜ぶというよりも

なんだろう…自分の子どもが偏差値が高いことを自慢する感じ。

喜びというよりも 勝負に勝ったという感じ。 

シャネルのバックのデザインが好きで シャネルのバックを手に入れたのことがうれしいんじゃなくて

高いバックを持ってることがうれしい 

みたいな??(通じてるかな)

 

私の方は 細かいことにモヤモヤしつつも

「偏差値高い中学」に入学することが嬉しかった。

結局 母と同じである。志望校の校風とか制服とか卒業後の進路とかなんにも考えていなかった。

ただ、そのまま6年間そこで学び、偏差値の高い大学に行くのだと思っていた。

 

受験直前に大手進学塾に入ったことも、なんとなく消化しつつあった。

大手進学塾の直前予想模試で出た問題がそのまま志望校の入試に出たのだ。

ああ、やはり大手進学塾に転塾していてよかったな~と 1か月しか通っていないのに

大手進学塾で発行している「合格体験記」にまで寄稿した。

 

 

入学式。

ショックなことがあった。

新入生代表として知り合いが壇上に出たのだ。

その新入生代表は 元々いた〇〇館のSクラスで同じだった子だった。

Gさんほどではないが 上位常連。

私やGさんのように1位になることはなかったが、安定して上位にいる子だ。

また、新入生の中には ずっと〇〇館のAクラスにいた子も数名いた。

 

転塾する必要はなかった。

 

はっきりそう思った。

私はあのまま〇〇館にいても合格していただろう。

そう思うと、本当に悔しかった。

あの冬期講習での苦しみはなんだったのか?

 

 

いろんな学校から集まった新入生とは言え、たいていは塾通いをしている子たちである。

最初は出身塾ごとに固まっておしゃべりをする。

私は… 〇〇館の子ともなんとなく後ろめたい気持ちだし、大手進学塾の子とも特に親しいわけではないしでなんとなく孤立してしまった。

 

 

当時の事を振り返ってみると

〇〇館にいた頃までは勉強が楽しかった。

もちろん志望校に合格することが目標だったが その過程での

通塾や学習の中に楽しみがあった。

しかし、転塾したことで

「合格さえすればいい」「合格するためにだけ勉強すればいい」

という思考に変わった気がする。

 

私は中1の1学期の真ん中には 見事に落ちこぼれていた。

勉強しても、勉強しても 内容が頭に入らないのだ。

何をやっても全く頭に入らなくなった。

大好きだし、得意だった算数も 数学に変わった瞬間ダメだった。

小6の受験算数の方が、中1の最初の数学の方が余程難易度が高い。

にも関わらず さっぱり理解できなくなった。

 

燃え尽きた。

 

 

私は小4の頃から 学校では「勉強出来て、家がちょっと金持ち」キャラだった。

田舎の公立小では 親が高学歴高収入サラリーマンというだけで金持ちだったのだ。

私はそのキャラを得ることで長く続いた 指しゃぶりを卒業できたのだと思う。

 

しかし、偏差値が高めの私立中では親がサラリーマンというだけで貧乏層である。

さらに私は早々に勉強でも落ちこぼれていたので自分が何者か分からない。

指はさすがにしゃぶらないが 精神的には不安定だった。

その不安定さは大人になっても続く。

 

何者か分からない私は

常に自分以外になりたくてしょうがなかった気がする。

前にも書いたが 痩せて別人になりたかった。

バリバリ仕事が出来るキャリアウーマンにもなりたかった。

今もそういう面があるかもしれない。

中々 自分をそのまま受け入れられない。

 

つまり、自己肯定感が低いとはそういうことなんだろうとしみじみ思う。

 

 

                          中学受験の思い出 おわり