毒親育ち、子どもを育てる

毒親の元育った私が子どもを育てた話。解毒に至る過程などもぼちぼち書きます。

淡々とした無音の空気感。

いつも文章がとっ散らかっててすみません。

 

出来るだけ感情的にならないように淡々と事実のみを書きたいと思っているが

書いている間にあれもこれもとどんどん昔の出来事が思い出され

結果、こんな感じに仕上がっている。

 

感情的にならないように、というか、私は出来るだけ感情を出さない子どもだった。

軽い場面緘黙のようなところがあり、気を許した大人と普段保育園が小学校であう子ども以外の前では無表情で黙っていた。

そのせいか、昔のことを思い出すとき、

全て音のない色あせた状態で頭の中で再生される。

上手く表現できないが

長嶋有さんの「猛スピードで母は」という小説の空気感がそれとそっくりだった。

主人公の少年目線で書かれているのだが、少年の感情が表に出る事が殆どなく全て少年の心の中で完結している点が 私の過去と似ているせいかもしれない。

 

私は思っていることを口に出せなかった。

 

どう表現していいか分からなかったことと

表現してもどうせ聞き入れてもらえないことを知っていたからか。

 

印象に残っているのが

両親が離婚してすぐの頃。

5歳の時だ。

両親や周囲から「離婚します」という報告などはなかったが

5歳の私は察した。

・妙に回りがバタついていたこと

・突然 違う名前を練習させられたこと

・父が帰ってこなくなったこと

・かと思うと 突然やってきておもちゃを買ってくれたこと

・苗字が変わったこと

その他もろもろの状況から察した。

「どうしてパパは帰ってこないの?」なんて母に聞くことはなかった。

その代り、保育園でならった

「小さな木の実」という歌を母に歌った。

6歳になった私は「小さな木の実」をパパが居なくなる歌と解釈したからだ。

結局、私の母へ対するささやかな皮肉は届くことなく

母は私の歌声に対していつも適当な賛辞述べていた。

 

時々、父のことを思い出して泣くことはちょくちょくあったが

「何故悲しいか」「どうして欲しいのか」について周囲に伝えることはなかったし、

周りの大人たちも聞かなかった。

 

一度、保育園でブランコから落ちて泣いたことがあったが

その時も保育士は何も聞かずに私が泣き止むまで黙って横にいるだけだった。

心の中で、「あ、いや、痛いだけなんだけど」と思いながら眺めた、保育士の微妙な表情が未だに忘れられない。

 

少し大きくなり、自分の気持ちを口に出せるようになったころ、

また母との関係が変わった。

小学校3年生くらいからだと思う。

ギャングエイジに差し掛かり、自分の気持ちを母にぶつけるようになった。

しかし、それは長続きしなかった。

私が「かなしい」というと

母は「私の方がかなしかった」というし、

私が「辛い」というと

母は「私の方がつらかった」という。

母は「あなたは恵まれている。私の子どものころの方がずっとかわいそうだった。」という話を私が泣くまでした。

母の「私の方がつらい」話は始まると長いし、結局私が泣くまで終わらない。

なので その地雷を踏まないように用心深く生活しているが 

それでも月に1度は踏んでいた気がする。

母の「私の方がつらい」話は私が大人になっても続いたし、結婚して家を出てからも続いた。

母の話を聞く限り、確かに私より母は辛かっただろう。

「お母さん可哀そう。だから私は我慢しなければ。」

そんな思考だった。

結果 私は人に「つらい」と言えない大人になった。

「つらい」と言えないから 吐いたり痩せたり倒れたりして辛さを表現していたのだ。

流石に最近は吐いたり痩せたり倒れたしたりはしないが、

未だにストレスがたまると白髪が出たり、蕁麻疹が出たり、下瞼がけいれんしたりするので要注意だが

淡々とした無音の思い出を脳内から出力し、このブログに改めて記録することで

古い記録が脳内から消去されているのかもしれない。

 

空いた脳内の領域には音入りの楽しい思い出が新しく入るようになるといいなと思う。